近藤林内|東温市の偉人から歴史を紐解く
こんにちは。
東温市移住・交流担当です。
みなさんはお金持ちになったら何にお金を使いますか?
豪邸、高級車、世界一周旅行…
考え出すと、夢は膨らむばかりです。。
かつて、東温市の河之内地区に、お金持ちなのに世の中のためにお金を使った人がいるのを知っていますか?
その人の名は「近藤林内(こんどう・りんない)」。
今回は、数々の功績を残したにもかかわらず東温市でも知っている人が少ない近藤林内について調べてみました!
近藤林内って?
近藤林内は文政元年(1818年)から明治21年(1888年)まで東温市河之内で活躍した人物。200年以上も前ですね。
林内は現在の河之内日浦組 柳苧(やなぎそ)の近藤次右衛門(近藤分家)の第三子として生まれました。
10歳の時、本家に養子として迎え入れられます。
小さな頃から頭がよく、近所でも評判の働き者。
また、父の死後には100日間、毎日欠かさず墓参りをしました。泣ける。絶対友達になりたいタイプ。
本家の7代目当主となり、造り酒屋の後を継いだ林内。林内は若い当主でしたが、お客さんをとても大切にしたそう。
使用人に対しても気配りを忘れず、一生懸命に仕事に励み、商売はますます繁盛。大庄屋となり、広い地域の庄屋のまとめ役となりました。
地位を得たにも関わらず、林内は変わることなく優しい人のまま。困窮者には田畑や金銭を与え、身寄りのない者にはお米を与えたそうです。
働くばかりではなく、「五楊」という俳号で俳句も楽しんでいました。
林内は明治21年に70歳で亡くなりました。その訃報を聞いて、誰もが悲しんだそうです。
そのお墓は河之内日浦味間屋の高台にあり、東温市の文化財として保存されています。
お墓には生前から親交のあった三輪田米山の文字で「慈恵院清翁是正慈善菩薩」と書かれています。
漢字一つひとつに林内の生き方が現れていますね。
東温市に近藤姓が多いのは林内に憧れて?
現代では誰にでも苗字がありますが、江戸時代までは位の高い人しか名乗ることができませんでした。
しかし、明治8年に「苗字必称義務令」が出され、平民の苗字使用が義務づけられました。
このとき、河之内の多くの人が林内と同じ近藤姓を名乗るようになりました。
林内の人柄や、河之内の人からどんなに尊敬されていたか伝わってきますね〜。
白猪の滝・唐岬の滝を見つけたのも林内?
現在、河之内地区のシンボルになっている白猪の滝・唐岬の滝を発見し、そこまでの道路を整備したのも林内です。これ一番びっくり。
96mの高さから一直線に落ちる男性的な白猪の滝(雄滝)、五段に分かれて紅葉の間を優しく落ちる女性的な唐岬の滝(雌滝)は、夫婦滝とも呼ばれています。
白猪の滝の氷瀑(滝全体が凍結すること)には県外からも多くの人が訪れます。時が止まっているかのような幻想的な風景は圧巻ですよー!
2021年1月の白猪の滝。3年ぶりの氷瀑に多くの人が訪れました。
林内会|林内を後世に伝えていこう
林内会とは、「偉人近藤林内翁の遺徳を偲び、その功績を次世代を担う子供たちに伝え、併せて、近藤家屋敷跡、近藤家墓地など、文化財の保護に努め、以って郷土文化や地域の発展に寄与するとともに、会員相互の親睦を図ること」を目的に活動している会です。
子規・漱石らが実際に歩いた近藤本家から白猪の滝・唐岬の滝へと行く道を探し出し、「子規・漱石の路」を作る活動もされています。
本記事は同会が発行した「近藤林内物語 身だからは イモに大根に ムギの飯」を参考にさせていただきました。
この本は惣河内神社(東温市河之内4876)や東温市立図書館で読めます。ぜひ手に取ってみてくださいね。
「身だからは イモに大根(だいこ)に ムギの飯」。お金持ちになっても決して贅沢な暮らしをしなかった林内を象徴していますね。
girandole-近藤林内物語|林内の生涯が舞台になりました
(2021.4.25追記)
2021年2月13日〜14日、東温アートヴィレッジセンターで「girandole-近藤林内物語-」が上演されました。
近藤林内の生き方や想いを現代風に大胆に表現。生の舞台ならではの臨場感です。
こうして林内の生き方が後世に語り継がれていくのですね〜としみじみしちゃいますね。ではまた!
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