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「大人浮地」あなたはこの漢字が読めますか?<ローカルレポ>

みなさんこんにちは。
東温市 移住・交流担当です。

さて、この記事のタイトルに記載した「大人浮地」
あなたはこの漢字を読むことができたでしょうか?

ヒントは東温市内のある地区の名前です。

 

正解は「大人浮地」で「うしぶち」と読みます。
現在は「牛渕」と標記しますが、古くは「大人浮地」と標記していたという言い伝えがあるそうです。

そんなところで、今回の記事では東温市役所から車ですぐ近くにあります「牛渕(うしぶち)」地区についてまとめていきたいと思います。

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<目次>

1.牛渕地区の概要

2.どうして「牛渕」っていう地名なの?

3.今の牛渕地区が形成されるまで

4.道音寺・浮嶋神社に行ってみた

5.まとめ

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牛渕地区の概要

東温市と松山市のほぼ境界線に位置している「牛渕地区」。

人口は約1,900人、世帯数は約800世帯です。(平成30年2月1日現在)

牛渕地区には私鉄伊予鉄道(横河原線)の駅舎が2つ(「牛渕団地前駅」・「牛渕駅」)あり、通勤・通学や日常のお買い物にも便利な地区です。

毎年10月の秋祭りに合わせて行われる「練り行事」は約150年ほど前から続いており、愛媛県内でも他に例のない珍しい伝統行事として市の無形文化財にも指定されています。

どうして「牛渕」っていう地名なの?

どうして「牛渕(うしぶち)」という地名になったのか。
漢字に「牛」が入っているからまさか昔は牛がたくさんいたりして!!
なんて冗談のようなことを考えながら資料を探していたところ、ある情報を見つけました。

なんと昭和20年代から30年代前半には田を鋤く(耕作しやすくするために春に田を掘り返す)ため各農家は牛を飼っており、牛渕地区でも日常的に牛が見られていたそうです。

(参考サイト:愛媛県生涯学習センター(えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業ー東温市)

しかし農機具が発達する以前に牛を使って田を鋤くのは全国的に行われていたであろうことなので、この理由だけで「牛渕」という地名になったと考えるのは少し無理があるかもしれません。

他にも、鎌倉時代に牛渕太郎美作守孝房(うしぶちたろうみまさかのかみたかふさ)という人が、鎌倉幕府第3代目の征夷大将軍「源実朝(みなもとのさねとも)」の御家人(将軍と主従関係を結んだ武士)として牛渕・田窪周辺の土地を管理していたという文献も見つかりました。

また、孝房の父である牛渕太郎美作孝任(うしぶちたろうみまさかのたかとう)も牛渕の名を名乗っていることから、鎌倉幕府の成立頃には「牛渕」という地名が確立しており、その地名を使って孝房も孝任も自分の氏名に牛渕という姓を使っていたのではないかと考えられます。

<<合わせて読みたい>>愛媛県東温市にはなぜ○○さんが多いのか?(ローカルレポ)

今回の調査では、明確な地名の由来を見つけることはできませんでしたが、「うしぶち」という読み方のもとで「大人浮地」⇒「牛淵」⇒「牛渕」と標記が変化してきたことは事実でしょう。

 

今の牛渕地区が形成されるまで

現在の牛渕地区は、江戸時代に浮穴郡牛渕村と呼ばれていた区域にあたります。

かつての集落は現在の浮嶋神社の南方一帯にあたる「古屋敷(ふるやしき)」と呼ばれる区域でした。しかし重信川の氾濫による被害がたびたび起こり、その被害を避けるために先祖代々の屋敷地を捨てて、浮嶋神社の北方一帯にあたる「牛頭守(ごずのもり)」に移転したと伝えられています。

この村移りは天和2年(1682年)~天保8年(1837年)までの約150年間を要する大規模なものであり、このことは「重信町誌」にも記録として残されています。

ではなぜこの村移りに150年間もの長い期間を要してしまったのでしょうか?

それには大きく2つの理由が考えられます。

1つ目は、この村移りはただ場所を移動するだけでなく、移動する前に動先の土地を碁盤状に区画し、東西南北に道路・水路を敷設し、区画を決めて宅地造成などを行う現在でいうところの都市計画区画整理事業をしっかりと行ってから村移りをしたからと言われており、このことを指示していたのは今も牛渕地区にあります「道音寺」の当時の僧侶だったそうです。

2つ目は、その当時の時代背景にあります。

村移りを行った天和2年(1682年)~天保8年(1837年)までの期間は江戸時代であり、その当時は大名や農民を統制し、幕府の力を維持していくための様々なルールが設けられていました。「田畑永代売買禁止令」により農民の所持田畑の売買を禁止、「分地制限令」により農民の所持田畑の分割相続を制限。これら大名や農民への統制政策により、経済的に余裕がなく、それに加え当時の農地法により宅地造成や住宅移転等も制限が加えられていたことが村移りを長引かせてしまったのではないかと考えられます。

 

道音寺・浮嶋神社に行ってみた

先ほどの、村移りの話でも話題になった「道音寺」に行ってみました。

写真の右側にある銅像はもしかして村移りで大活躍した当時の僧侶なのでしょうか?
この銅像の正体は誰なのか、また調べに行ってみようと思います。
(※後日、正体を調べに行くと「身代り大師」と記されていました。「大師」とは、真言宗の開祖であり弘法大使の名が贈られている「空海」のことを示しているそうです。)

さらに境内の左奥に進んでいくと、「身代り大師」さまの大きな絵馬がありました。

こちら道音寺は、伊予十三佛霊場第9番、勢至菩薩(せいしぼさつ)ということで、迷いや戦いから救ってくれると言われています。
また秋にはイチョウが見頃を迎えるなど、四季を通じて様々な景色を楽しむこともできます。

続いて、浮嶋神社にも行ってみました。

こちら浮嶋神社は、六国史(奈良・平安時代に完成した6つの歴史書の総称)にもその名が記されているように愛媛県中予地方でも屈指の歴史と伝統・格式を誇る神社です。

一般的に神社には複数の神々が祭神として祭られていますが、その中でも中心となる神を「主祭神(しゅさいじん)」と言います。

浮嶋神社の主祭神としては「可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこじのみこと)」・「大山積命(おおやまつみのみこと)」・「三神御面(さんしんごめん)」が祭られており、「開運招福」・「交通安全」・「安産守護」・「雨乞い」などの御利益があると言われています。

冒頭でも取り上げた「練り行事」のスタート地点にもなっており、ここから約1kmを行列で練り歩きます。

 

神社内でおみくじを発見!

今年に入ってまだおみくじを引いていなかったので「大吉」が出ることを願いさっそく引いてみました!

結果は・・・

 

 

「末吉」・・・

「徐々に運気は下降するため調子に乗りすぎるな。」・・・

そっとおみくじを閉じ結んで帰りました。
初心を忘れず今後とも頑張っていこうと思います。

【参考文献】

「重信町誌」・「牛渕の郷土史」

 

まとめ

牛渕地区は、隣の松山市とのほぼ境界線に位置。
人口は約1,900人、世帯数は約800世帯。(平成30年2月1日現在)
牛渕地区には私鉄である伊予鉄道(横河原線)の駅舎が2つ(「牛渕団地前駅」・「牛渕駅」)あり、通勤・通学や日常のお買い物にも大変便利です。
地域行事にも力を入れており、中でも「練り行事」は市の無形文化財にも指定されるほどです。
地区内には歴史ある寺社「道音寺」・「浮嶋神社」があります。

今回取り上げた「牛渕地区」に限らず、東温市への移住相談は、市職員が現地案内を行いますので、気軽にお問い合わせください!
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※記事に掲載した内容は投稿日時点の情報です。変更される場合がありますので、ご了承ください。
※令和3年4月よりお問合せ先が東温市産業建設部地域活力創出課地域振興係TEL 089-964-4414に変わりました。

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